キーマカレーミュージック
今日は珍しく平日の休み。
特にやることは沢山あるが、それはひどく面倒事ばかりで、それをおめぇ休みにやったら休みが休みじゃなくなるホリディ・オブ・ザ・デッドなので、やらない。
絶対に。
というわけで、今日も粛々と仕事に出かけた嫁のためにキーマカレーを作ってやることにする。
材料を用意し、iPhoneで料理サイトの「超おいしい!宇宙波動キーマカレー」のページを開き、準備は万端。
かと思われたが、大事なものを忘れていた。
そう。
音楽である。
この殺風景な安アパートのキッチンを薔薇色に染め上げ、ダークサイドに堕ちた私の心を深淵から吸い上げて高度3万mまで投げ飛ばすような、ポップでアッパーなミュージックがなければ、こんなくそ面倒な料理なんぞやってられるかボケ、という気持ちが治らない。
結果、憤怒の念を煮込んだキーマカレーを作ることになってしまい、それを食べた嫁が憤怒の念に取り憑かれ、目についたあらゆる物を破壊した挙句、唐突に巨大化して街で大暴れ。
見かねたウルトラマンがジュワッ!ジョワッ!と、すったもんだした果てにスペシウムな光線で嫁を爆散させてしまう悲しき事態を招いてしまうのは想像に易い。
ゆえに音楽を。
それもキーマカレーをより美味くするような、キーマな音楽を聴きながら作らなければならない。
結論から言おう。
キーマカレーを作るときに聴くべき音楽は『METALLICA / Enter Sandman』である。
イントロのギターリフから溢れ出るキーマ感。
曲全体を覆う重厚なサウンドとキーマ感。
嗚呼、見える。
ギターソロに合わせて玉ねぎをみじん切りにするジェイムズ・ヘットフィールドが、挽肉を炒めるラーズ・ウルリッヒが、鍋を掻き回しているカーク・ハメットが!
さすが、スラッシュ・メタル四天王である。
聴いた事がない人は聴け。
すぐ聴け。
聴いてみて「全然キーマカレーじゃない」と思ったやつは、2回でも3回でも聴け。
そしたら、ほら、ようこそメタルの世界へ。
気がつけばメロイックサインを掲げてヘドバンしてるはずである。
私はズグズグと刻まれるビートに合わせて玉ねぎを刻み、挽肉を炒め、ルーを溶かしてグツグツと煮込んだ。
出来上がったキーマカレーを食べた嫁は「うまい」と言った。
彼女は知らない。
このキーマカレーはEnter Sandmanをたっぷりと、隠し味に『ミニモニテレフォン!リンリンリン』を聴いて作られたということを。
心踊るぐだぐだぐだぐだ
休日、にして、雨。
外出する気分は霧散霧消し、あとには日常の疲れで支那竹のようにしおしおになった心だけが残っていた。
今日はグダグダしたろ。
目一杯グダろ。
32歳の私が70歳まで生きたとして、残り38年の人生、残り13,870日の人生の中で1日くらいそんな日があったっていいよね。
どーせグダグダと過ごすなら、それはもう全力でグダグダするに限る。
ただ無意味に時間を消費し、日が暮れる頃に虚無と空虚のタッグにタコ殴りにされて枕を噛んで眠る。
これぞグダグダである。
そもそも「グダグダする」という行為には何一つ生産性がない。
それもそのはずで、何も生産しないからこその「グダグダ」であって、何か生産してしまったらそれはもはや「グダグダ」ではないのだ。
にも関わらず、無為な1日に焦り、虚無と空虚さに後悔する。
この矛盾を生じさせることこそが、全力で「グダグダする」ことだと思う。
会社の会議で、革新的かつ革命的な激烈に猛烈なアイディアを出した後輩がいて、出世欲に溺れ、出来れば手柄を横取りしたい私はどうやったらそんな業界が天変地異を起こす程のアイディアを出せるのかと尋問、詰問したところ、「家でグダグダしていたら思いつきました」と言った、言いやがった。
これは明らかな嘘である。
上にも書いた通り、グダグダするというのは何一つ生産性のない、非生産という言葉を具現化したような行為だ。
故にグダグダしていて何か思いつくことなどあるはずがなく、また、あってはならない。
では後輩のいうグダグダとは何なのかというと、これは間違いなくファッション・グダグダである。
ファッション・グダグダとは何かと言うと、グダグダするふりをしながらも頭の片隅では仕事のことや晩飯のこと、将来のこと、会社のアイドル美樹ちゃんのことなど、様々なことを考え、想い、画策して、ちゃっかり生産性を上げることである。
そして生産されたものを人前にバッと広げて見せては、脳みそをフル回転させ、結構なカロリーを消費して苦労の末に生産したくせに、
「俺、グダグダしてたらできちゃいました」
と、余裕をかまし、格好つけ、そんな虚像の自分に酔うのだ。
私はね。
そんな人たちがね。
嫌い。
三途の河でも渡れや。
グダグダするというのは、それはもう人間的生活を放棄するぐらいにダラダラでドロドロな状態になってこそだと私は思う。
それゆえ、今の私は床に仰向けになって寝そべり、上半身はもはやフローリングと一体化し、下半身は膝を曲げてベットに置くという意味不明な体勢になっている。
この状態でも十分にグダグダ感を満喫できるが、そこから更に両手を使って仰向けのままフローリングをグングン進む。
足がベットから離れても、なぜか浮かせたままの状態でフローリングを自由自在、風が吹くまま気が向くままに進む。
意味不明というよりも奇妙、奇怪な行為だ。
しかし、私の体内には先ほどとは比にならないほどのグダグダ感が溢れ、世の中の大抵のことがまぁーーーーーーーーーーどうでもよくなってきた。
このフィーリングいいわぁ。
めっちゃいいフィーリングだわぁ。
このまま三途の河、渡りたいわぁ。
カッコいいお酒の頼み方
1人でお洒落なBARに行き、カウンター席に腰を降ろして一言。
「マスター、いつもの」
映画やドラマなんかでよく聞く、お決まりの台詞である。
かっこいい。
私が思うに、世界で一番かっこいい酒の頼み方だと思う。
「いも焼酎、ロックで」
「浦霞、ぬる燗で」
「カルピスサワー、濃いめで」
「カルーアミルク、カルーア抜きで」
「マスター、いつもの」
ほら、な。
比較すれば一目瞭然。
「マスター、いつもの」が燦然と輝いて眩しいよ。
人生で一度くらいは言ってみたい台詞だが、そのためにはどうすれば良いのか。
答えは簡単。
いつも同じモノを頼めばいいだけである。
馬鹿の一つ覚えの如く、ウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイと、頼み続ければよいのだ。
だが、問題はマスターがそれをちゃんと憶えてくれるかどうかである。
「自分はあれだけ阿呆のようにウーロンハイを頼んだのだから、マスターも憶えているだろう」なんて思うのは自意識過剰な自惚れだ。
恥を知れ、恥を。
世の中は広い。
自分と同じように、いや、自分以上にウーロンハイを頼む人間がいてもおかしくはない。
つまり、マスターからすれば「ウーロンハイの人」は自分ではない可能性は十分あるのだ。
そのため、自分ではなかなか印象付けた気でいても、マスターからすれば会議室の観葉植物ぐらいの印象しか残っていないこともありえる。
想像してみるといい。
意気揚々と、自信満々で「マスター、いつもの」と注文し、「は?」と返される姿を。
カッコ悪すぎて二度と同じ店には行けなくなるのは必至である。
「マスター、いつもの」と言うからには、絶対に、確実に、100%、マスターに意味が伝らなければならない。
失敗は許されない。
失敗=死。
死因は羞恥心の爆発である。
石橋を叩いて渡るような、慎重な行動が必要だ。
そのためには、とにかく通い続ける他ない。
通って通って通って通って、例え身銭が底を尽きようとも怒涛の借入で絶えず通い続ければよい。
キャバレークラブの嬢とは違い、BARのマスターは必ずその努力に応えてくれるはずである。
しかし、ここでも自惚れは厳禁だ。
「一か月、毎日通い続け、毎日ウーロンハイを浴びるように飲んだのだからマスターも憶えてくれただろう」
そんな考えは甘い。
普通なら憶えてくれるだろうが、それはあくまでも推測であり、決して絶対的なものではない。
こちらが勝手に「このくらい通えば覚えるだろう」と決めつけ、それをマスターに押し付けようとしているだけである。
もはやどうしようもない。
自分はこのままウーロンハイに溺れて廃になるんだ。
そう悲嘆するのは早計である。
攻めてダメなら守りに徹すべし。
ようは自分から「そろそろいいだろう…」と攻めに出るのではなく、マスターが攻めてくるのを待てばよいのだ。
マスターの攻めとは即ち言動である。
例えば数日通うのを止め、久しぶりにBARに行ったとする。
そこでマスターはどう動くか?
「あぁ、お久しぶりですね」
なんて言われたら、間違いなく自分のことを憶えられたと思っていいだろう。
だからと言ってすぐに「いつもの」と言ってはいけない。
ここは慎重に、何を頼むか迷う素振りを見せながら独り言のように「どうしようかな〜いつものにしようかな〜」と軽いジャブを打って様子を見るべし。
ここでマスターが「ウーロンハイですね?」と言ってきたら勝ちである。
次回からは「いつもの」で注文してもよい。
逆に、意識の抜けたマネキンのような顔でいるなら「あ、ウーロンハイお願いします」と逃げるほかないが。
とにかくマスターの一挙手一投足から「いつもの」で頼めるかな否か、そのタイミングを計ることが大事だ。
そして、それこそが「マスター、いつもの」と言うための攻略法である。
攻略法はできた。
あとは実践あるのみだ。
しかし、重大な問題が残っている。
私は酒が飲めない。
めちゃくちゃに弱い。
だから、飲みたいとも思わない。
BARなんてこれっぽっちも行きたいと思わない。
つまり、私は一生「マスター、いつもの」という台詞を言うことはない。
と、いうか、言えない。
は?
じゃあ、なんであの台詞に憧れるの?
憧れや目標に対するプロセスばかり考え、肝心の土台となる自分の能力をすっかり度外視してしまうのは私の癖である。
というか、馬鹿の証である。
だから、私はいつまでも低収入で貧乏に嘆き、出世に縁がない。
人生ってこんなもんだよね。
コカ・コーラが今日もうまい。
爆発する焦燥感の果て
雑誌を読んでいたら面白そうな小説が紹介されていたので、早速TSUTAYAに行って買ってきた。
座椅子に座り、横にあるミニテーブルの上に淹れたての珈琲とm&mチョコレートがいっぱいに入った瓶を準備し、完全読書体制を整える。
今日はゆっくり本を読んで過ごそう。
そう思って数頁めくってから私は本を閉じた。
ダメだわ。
なんか、ダメだわ。
最近の悩みの一つが、積み本である。
積み本とは、面白そうなだなー、読みたいなー、と思って買ってきたのに、いざ手に入ると急に読む気が失せて棚の上にポンッと置きっ放しになっいる本のことだ。
別に読みたくなったら読めばいい話なのだが、いかんせん積み本を消化する前に新たに本を買ってしまい、積んで、買って、積んで、買って…と繰り返した結果、私の本棚には餓鬼道巡行、八月の六日間、レインコートを着た犬、死の迷宮、暗殺の年輪の計5冊が積み本になっている状態だ。
なんだか提出期限のない宿題がずっと残っているような気持ちである。
積み本をしてしまう原因は、焦燥感のせいである。
本を読んでいると、ふと「読書なんてしてる場合なのか」と謎の焦りが生じるのだ。
1日は24時間である。
そのうち睡眠に8時間割いたとして残り16時間。
平日であれば仕事で12時間程度は拘束されるので残りは4時間。
ゆっくりご飯を食べて、お風呂に入ったら2時間は掛かるので残り2時間。
つまり平日の私には2時間しか好きなことをできる時間がない。
ならば休日はどうかといえば、「家に籠っていてはもったいない」と思って目的が無くても外に出てしまう。
さらに歳のせいか、休日には日頃の疲れが出てしまい、気がつけば昼寝をしていることもしょっちゅうなので、結果的には平日とほぼ同じような時間しかない。
そのため読書をしていると、アレもコレもしたいやりたいと思い始め、まったく集中できなくなってしまうわけである。
焦燥感によって集中できないのは読書に限ったことではない。
読書をやめて動画なんかを見始めても同じで、動画を流しながら携帯ゲームを始めたり、雑誌を見てみたり、結局本を開いてみたりと、私は絶えず何かに焦っている。
これを解決するには単純に自分の時間を増やせばいいのだろうが、仕事を辞めない限りは不可能に近いと思う。
ならば、時間割を作ってみたらどうかと思いついた。
1時間は読書。
30分は動画。
30分はブログ。
こんな感じで時間単位で管理してしまえばいいのではないか。
または時間と言わず、日単位、週単位としてもいいかもしれない。
これなら読書なら読書、動画を見るなら動画と、それぞれに集中できそうだ。
しかし、自分の完全なプライベートまでスケジュール管理するというのはなんとも悲しい。
まるで仕事をしている気分である。
というか、そこまでしないと集中できないことがまず情けない。
そもそも私が感じている焦燥感は何が原因なのか、自分にもよくわからない。
だが、なんとなく、未来への不安なのかなとは思う。
明日仕事行きたくねぇとか、今月あといくらしかないとか、老後のことだとか、なんだかんだ。
私はそうした未来の不安がなるべく見えないように、「今」に強い光を当てる。
だけど視界の端に、思考の片隅に、未来の不安はチラチラと姿を現わす。
それが私の焦燥感の正体なのだと思う。
私は一心不乱に洗い物をした。
洗い物には瞑想効果があるらしいからだ。
余計なことは考えたくない。
ただでさえ生きづらい世の中なのだから。
若者って何歳ですか?
仕事中、若者相談ステーションという建物を見つけた。
おお。
いいんすか、相談しても。
仕事のこと、家庭のこと、将来のこと。
私は不安でいっぱいなんだ。
1時間でも2時間でも3時間、4時間、5時間でも…
とにかく話を聞いてくれ。
ドアノブに手を掛けようかとしたその時、私はハッとした。
若者相談ステーションの「若者」とはいったい何歳ぐらいのことを指しているんだろうか。
私は現在32歳。
胸を張って若者とは言えず、だからと言って中年という言葉もしっくりこない、そういう年齢である。
調べてみたところ、厚生労働省によって年齢は以下のように区分されている。
・幼少期 0〜5歳
・少年期 6〜14歳
・青年期 15〜29歳
・壮年期 30〜44歳
・中年期 45〜64歳
・前期高年期 65〜74歳
・中後期高年期 74歳以上
コレで見ると、32歳の私は壮年期ということになる。
ちなみに壮年期とは「成人として、もっとも体力、気力が充実している年齢」とのこと。
嘘だろ?
私の体力は20代の頃に比べたら明らかに低下しているし、気力なんて皆無だぞ。
それともなにか?
世の壮年期諸君は体力が充実していて、気力はギンギンに漲っているのかい?
私がおかしいのかい?
嘘だ!
嘘だと言ってよ、バーニー!
それはさておき。
厚生労働省による年齢の区分には「若者」という区分は存在しない。
だが、辞書で「若者」を調べてみると「歳の若い者。わこうど。青年」とは書かれている。
青年とは、青年期の者である。
つまり、若者とは厚生労働省が区分した青年期の15〜29歳の者と言えるのではないだろうか。
そう仮定すると、絶賛壮年期の私はもちろん若者ではない、ということになるのだが、それは、困る。
まだまだ若者でありたいと言うか、「大人」とか「おっさん」といった、そういった者になる心の準備が全く出来ていない。
心の成長が実年齢に追いついていないんだ。
もう少しだけでいいから、若者でいさせてくれ。
せめて精神年齢が18歳くらいになるまでは。
甘酸っぱい青春のなかに、「若者」が痛々しいほど鮮やかに描かれていた。
星はなぜ光るのか?
夜空をぼーっと見ていてふと思う。
星ってなんで光るんだろう?
小学生の頃に習ったような習ってないようなことだが、とにかく今の私にはわからない。
馬鹿である。
だが、大いに結構。
馬鹿の方が学ぶことがたくさんあって、いつだって新鮮な気持ちで日常を生きられるんだぜ。
無知賛賞。
低学歴万歳。
果たしてなぜ星は光るのか?
そもそも光る星には2種類ある。
一つは地球や月といった惑星と衛星で、これは太陽の光を反射することで光って見えている。
そしてもう一つは恒星といって、自ら熱と光を出している星である。
夜空に輝く星のほとんどがコレだ。
恒星は星の中心で水素などのガスが核融合反応を起こして燃えている。
だから光る訳である。
ちなみに温度によって見え方が変わる。
赤い星→黄色い星→青白い星の順で温度が高いそうだ。
「黄色い星」で分かりやすいのが太陽で、表面温度は約5,778K。
「K」とは熱力学温度の単位で、1K=1℃である。
「青い星」で分かりやすいのはリゲル。
オリオン座を構成している星の一つである。
これは表面温度が約11,000K。
めっちゃ熱い。
自宅の風呂の温度が40℃なので、その275倍。
箱根温泉でだいたい46℃なので、約239倍。
草津温泉でだいたい48℃なので、約229倍。
もうね、想像できない温度なのはよくわかる。
星は熱で光る。
なるほど、納得だ。
日本を代表するミスター熱血男、松岡修造氏が輝いて見えるのも、恐らく体内で核融合反応が起きて熱くなっているからだと思う。
話は変わるけど修造カレンダーっていいよね。
元気でるわ。
キャンドルナイトの夜に
我が家にはキャンドル・ホルダーがいくつかある。
北欧雑貨メーカーのイッタラ社を狂愛している嫁が買い集めたものだ。
私は10数個あるホルダーの中からお気に入りの色を選び、キャンドルを入れて火を点けた。
部屋の電気を消すと優しい光が現れ、ゆらゆらと火が揺れる度に影は踊った。
ああー。
ロマンチックだ。
キャンドルの火の先がチリチリと燃えながら二酸化炭素とロマンチックを発生させている。
もはや部屋はロマンチックでいっぱいだ。
圧死するぜ。
ロマンチックで。
そのとき私はふと思った。
そもそもロマンチック、とはなんだろうか。
なんとなく目の前の光景には「ロマンチック」という言葉が合っている気がするけれど、本当に意味的に合っているのだろうか。
その場のフィーリングだけで適当な言葉を使うのは私の悪い癖である。
悪い癖と認識しているなら治してみようホトトギス。
人間五十年〜と敦盛を舞いながらサクッと調べてみた。
ロマンチック
現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。
敦盛を舞うのを止めて考えてみる。
はて、「現実を離れ」というのはどういう意味だろうか。
幽体離脱的な?
もしくはトリップ的な?
そうなるとロマンチックに近いのは危険ドラッグの常習者ということか。
いかんせん傍からは「ギィェピィィ」と奇声を上げている狂人にしか見えないが、当の本人は甘美な幻想の中でロマンチックの泉に溺れているのかもしれない。
まぁ、なんにせよ今、私の目の前に広がるキャンドルの灯りでぽわーんとなっているこの状況、環境は少しロマンチックに欠けるのではないかと思う。
キャンドルのおかげで甘美さはなんとなくあるのだが、私は現実にどっしりと足を付けたままだ。
その証拠にロマンチックだなんだと書きながらも、頭では「明日仕事行きたくねぇなぁ」とか思っているのだから。
仕事。
しごと。
shigoto。
これほど圧倒的に現実感溢れる言葉が他にあるだろうか。
タイプするだけで指が震えるぜ、おい
嗚呼、仕事を辞めることがてきたらどんなに素晴らしいだろうか。
私はあり得ない自由と開放感を夢想しながら、ハッとした。
これである。
仕事を辞めること、即ち「無職」こそがロマンチックである。
無職によって得られる絶対的な自由という甘美さと、社会からの解脱というある意味で現実からの離脱。
まさしく、ロマンチックだ。
そうと分かれば話は早い。
私は便箋を取り出し、最初の行に筆ペンで辞表と書いた。
続いて社長には呪詛の言葉を、部長には怨嗟の言葉を書き殴り、そして、それをビリリと破り、丸め、ゴミ箱へと投げ捨てた。
32歳既婚者の私がロマンチックを求めて離職とは、正気の沙汰ではないと気づいたからである。
20歳の私ならば、こんな浮世にゃ未練はねぇと吐き捨てて、朝から晩までパチンコ店に入り浸り、銭と時間を爆散させてロマンチックを謳歌していただろう。
が。
32歳の私は違う。
失う時間には焦燥感を。
失う銭には絶望感を。
いつだって将来への不安でいっぱいである。
私はそういう年齢になったのだ。
だからこそ無職に憧れ、そこにロマンチックという言葉を当てはめる。
手に入らないから甘美であって、手に入ってしまったらそれはひどく退屈な現実に違いない。
キャンドルの火をぼんやりと眺めながら、私はそんなことを思った。
そして32歳のおっさんが一人でキャンドルナイトやっちゃってるのって結構あれだと思った。
きもいって。