トイレタイムペーパー

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カッコいいお酒の頼み方


1人でお洒落なBARに行き、カウンター席に腰を降ろして一言。

「マスター、いつもの」

映画やドラマなんかでよく聞く、お決まりの台詞である。
かっこいい。
私が思うに、世界で一番かっこいい酒の頼み方だと思う。
「いも焼酎、ロックで」
浦霞、ぬる燗で」
「カルピスサワー、濃いめで」
カルーアミルクカルーア抜きで」
「マスター、いつもの」

ほら、な。
比較すれば一目瞭然。
「マスター、いつもの」が燦然と輝いて眩しいよ。

人生で一度くらいは言ってみたい台詞だが、そのためにはどうすれば良いのか。
答えは簡単。
いつも同じモノを頼めばいいだけである。
馬鹿の一つ覚えの如く、ウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイウーロンハイと、頼み続ければよいのだ。
だが、問題はマスターがそれをちゃんと憶えてくれるかどうかである。
「自分はあれだけ阿呆のようにウーロンハイを頼んだのだから、マスターも憶えているだろう」なんて思うのは自意識過剰な自惚れだ。
恥を知れ、恥を。
世の中は広い。
自分と同じように、いや、自分以上にウーロンハイを頼む人間がいてもおかしくはない。
つまり、マスターからすれば「ウーロンハイの人」は自分ではない可能性は十分あるのだ。
そのため、自分ではなかなか印象付けた気でいても、マスターからすれば会議室の観葉植物ぐらいの印象しか残っていないこともありえる。
想像してみるといい。
意気揚々と、自信満々で「マスター、いつもの」と注文し、「は?」と返される姿を。
カッコ悪すぎて二度と同じ店には行けなくなるのは必至である。

「マスター、いつもの」と言うからには、絶対に、確実に、100%、マスターに意味が伝らなければならない。
失敗は許されない。
失敗=死。
死因は羞恥心の爆発である。
石橋を叩いて渡るような、慎重な行動が必要だ。
そのためには、とにかく通い続ける他ない。
通って通って通って通って、例え身銭が底を尽きようとも怒涛の借入で絶えず通い続ければよい。
キャバレークラブの嬢とは違い、BARのマスターは必ずその努力に応えてくれるはずである。
しかし、ここでも自惚れは厳禁だ。
「一か月、毎日通い続け、毎日ウーロンハイを浴びるように飲んだのだからマスターも憶えてくれただろう」
そんな考えは甘い。
普通なら憶えてくれるだろうが、それはあくまでも推測であり、決して絶対的なものではない。
こちらが勝手に「このくらい通えば覚えるだろう」と決めつけ、それをマスターに押し付けようとしているだけである。

もはやどうしようもない。
自分はこのままウーロンハイに溺れて廃になるんだ。
そう悲嘆するのは早計である。
攻めてダメなら守りに徹すべし。
ようは自分から「そろそろいいだろう…」と攻めに出るのではなく、マスターが攻めてくるのを待てばよいのだ。
マスターの攻めとは即ち言動である。
例えば数日通うのを止め、久しぶりにBARに行ったとする。
そこでマスターはどう動くか?
「あぁ、お久しぶりですね」
なんて言われたら、間違いなく自分のことを憶えられたと思っていいだろう。
だからと言ってすぐに「いつもの」と言ってはいけない
ここは慎重に、何を頼むか迷う素振りを見せながら独り言のように「どうしようかな〜いつものにしようかな〜」と軽いジャブを打って様子を見るべし。
ここでマスターが「ウーロンハイですね?」と言ってきたら勝ちである。
次回からは「いつもの」で注文してもよい。
逆に、意識の抜けたマネキンのような顔でいるなら「あ、ウーロンハイお願いします」と逃げるほかないが。
とにかくマスターの一挙手一投足から「いつもの」で頼めるかな否か、そのタイミングを計ることが大事だ。
そして、それこそが「マスター、いつもの」と言うための攻略法である。

攻略法はできた。
あとは実践あるのみだ。
しかし、重大な問題が残っている。
私は酒が飲めない。
めちゃくちゃに弱い。
だから、飲みたいとも思わない。
BARなんてこれっぽっちも行きたいと思わない。
つまり、私は一生「マスター、いつもの」という台詞を言うことはない。
と、いうか、言えない。
は?
じゃあ、なんであの台詞に憧れるの?
憧れや目標に対するプロセスばかり考え、肝心の土台となる自分の能力をすっかり度外視してしまうのは私の癖である。
というか、馬鹿の証である。
だから、私はいつまでも低収入で貧乏に嘆き、出世に縁がない。

人生ってこんなもんだよね。
コカ・コーラが今日もうまい。